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ことばの専門塾を主宰する在野の言語学者が身近な言葉の不思議について徒然なるままに好き勝手語ります。

イチローさんの言葉選び

ついにこの日が来たか、という感じです。2019年3月21日、メジャーリーガーのイチロー選手こと鈴木一朗氏が現役引退を発表しました。

彼と私は生まれ年も生まれ月も全く同じ。彼の引退によってついに同学年のプロ野球選手はいなくなりました。実は、こうなるかもという予感が働いたのでしょうか、3月18日に東京ドームで巨人とマリナーズプレシーズンマッチを観戦しました。元々予定していたわけではなく、偶然です。4月から非常勤講師としてお世話になる予定の私大にお邪魔していたのですが、帰り道に何となく「当日券あるかな?」と思い浮かび、東京ドームに立ち寄ったのでした。特にファンというわけではないのですが、年齢が一緒のメジャーリーガーの(少なくとも日本では)最後となるであろうプレーを少しでも見られれば、という思いで観戦しました。観に行って良かったと心から思います。

 さて、本題です。イチロー選手と言えば、スポーツ紙の記者から、取材対象として「記者泣かせ」の選手であり、一部には取材が「地獄だった」とされることもあります(『デイリースポーツ』)。その独特の(と言われる)言葉の言い回しは「イチロー節」とも称されます。今回は、そんなイチロー選手の引退記者会見の中で気になった言葉を1つ取り上げ、簡単に分析したいと思います。

 

◎「1軍に行ったり来たり」

イチロー選手の記者会見で一番感銘を受けたのは、「言葉選びの慎重さ」です。新聞記事になる、ということは一種の伝言ゲームです。音声記録を全て文字に起こして記事にする場合は構いませんが、そうでない限り、どうしても自分の発した言葉に受け取り手である記者の「解釈」が入ります。なるべくそうした記者独自の解釈が入る隙間を作らないように(つまり、誤解を招かないように)という配慮が言葉の節々に出ているように感じました。

 さて、そんな慎重な言葉選びの一端が良く表れている受け答えがありました。「ケン・グリフィーJr.が肩の力を抜いた時に違う野球が見えて楽しくなるという話をされたんですけど、そういう瞬間はあったのか」という質問に対して、イチロー選手は次のように答えます。

 

「ないですね。これはないです。ただ、子供の頃からプロ野球選手になることが夢で、それが叶って。最初の2年、18、19の頃は1軍に行ったり来たり。『行ったり来たり』っておかしい? 行ったり、行かなかったり? 行ったり来たりっていつも行ってるみたいだね。1軍に行ったり、2軍に行ったり。そうか、これが正しいか。そういう状態でやっている野球はけっこう楽しかったんですよ。」

 

今回私が着目するのはこの「行ったり来たり」です。何故イチロー選手はこの表現に対して違和感を覚え、最終的に「1軍に行ったり、2軍に行ったり」という表現に直したのでしょうか。

 

おそらく、ここで本来イチロー選手が言いたかった言葉としては「1軍と2軍を行ったり来たり」ということだったのだろうと思います。もちろん、「1軍に行ったり、2軍に行ったり」がおかしいということはありません。むしろ、後述するように、引退記者会見の発言ということからすると非常によく分かる表現です。それぞれを図式で表すと、以下のようになるかと思います。

 

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以下の説明は、言語学上の厳密な定義に基づくものではないことをお断りしておきます。あくまで話し手である「私」が「行く」「来る」場合ですが、「行く」の基本義は「話し手が現在いる場所を起点にしてどこかへ移動すること」になります。一方「来る」は「別の場所を起点に話し手のいる場所に向かって何かが移動すること」になります。

 これに基づくと、イチロー選手が最初に「1軍に行ったり来たり」という表現を使った際に自分で違和感を覚えたのは、「話し手のいる場所が定まらないから」ということになります。つまり、「1軍に行ったり」だけなら起点、つまり当時のイチロー選手のいる場所は「2軍」ということになります。つまり、「2軍にいたイチロー選手が1軍に移動する」ということになります。逆に「1軍に来たり」であれば起点は「2軍」でイチロー選手のいる場所は「1軍」ということになります。いずれにせよ、これだとイチロー選手自身が指摘したように結局移動先は「1軍」ですね。

 それに対し、言い直した「1軍に行ったり、2軍に行ったり」というのは上の図(2)のように話し手(現在の自分)を起点に1軍、2軍に向かう表現になりますので、ぐっと違和感は減るわけです。この表現の場合、自分を1軍にも2軍にも置かない形になりますので、引退会見という場に身を置く話し手が客観的に振り返って述べている感じが非常によく伝わるのです。

 順番は前後しますが、最後に(1)の「1軍と2軍を行ったり来たり」の場合です。この場合、視点は1軍・2軍どちらにおいても構いません。「1軍と2軍」というように移動の起点或いは話し手の視点を置く場所になりうる点を両方明示していますので、「1軍を起点に2軍へ行く」、「2軍を起点に1軍へ行く」、「2軍を起点に1軍へ来る」「1軍を起点に2軍へ来る」いずれのケースも含まれることになります(そういう意味では非常に曖昧な表現であるとも言えるかもしれません)。ですので、なかなか1軍に定着できなかった当時のイチロー選手の状況としてはこれが一番分かり易いかと思われます(こうした「来る」「行く」を専門とした研究をされている方からすると不十分な分析かと思いますが、直感的にはこれで十分理解はできるかと思います)。

 こういう言葉の選択一つをとっても、言葉を慎重に選んでいることが分かりますよね。