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ことばの専門塾を主宰する在野の言語学者が身近な言葉の不思議について徒然なるままに好き勝手語ります。

敬語のストラテジー

こんにちは。

皆さんは、Yahoo! などのサイトでニュース記事を読む際に、いわゆるコメント欄を表示していますか。私はコメントそのものには興味はないですし、まあ、誹謗中傷的なことも多いので気分が悪くなるので基本的には読みません。ですが、言語研究のために参照することもあります。今日は、ある事件に対するYahoo!ユーザーのコメントから見てみましょう。事件の詳細についてはここでは述べませんので、以下のニュースソースを参照してください。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180719-00010009-fnnprimev-soci

この記事の中で、被害者のお父様が犯人の行動に対して、

 

「人探しのビラを何回か、柏とか我孫子とか北柏で配布してるんですよ。どんな気持ちでそれ(ビラ配り)をされていたのか。本当に隠ぺいできると思っておられたのか。思いをはかれない部分ですね」

 

と話しています。これについて、あるユーザーがコメント欄において、次のようなコメントをしています。

 

「実の父親が犯人の親子に対して敬語で語られている事が悲しいですね。」

 

このコメントから、次の疑問が浮かんできます。

 

そもそも、なぜ被害者の父親が尊敬するはずもない犯人に対して「敬語」を用いたのか?

 

ここでは、敬語の語用論的な機能という観点から説明試みたいと思います。

 

言語学における「語用論(pragmatics)」とは、一言でいえば「言語の使用にまつわる意味的問題を扱う学問」です。例えば、「お腹が空いた」という発話は文字通りの意味では「話し手が空腹であることを伝える」だけですが、実際の使用の場面で解釈すると、様々な意味合いを持ちます。

 

子供「ただいまー。母ちゃん、お腹空いたー」

母親「もうすぐご飯できるけど、もし我慢できないなら冷蔵庫にヨーグルトあるよ」

 

この文脈では、子供の「お腹空いた」という発話は、空腹の事実を母親伝える同時に、食べ物、或いは食べ物に関する何らかの情報を要求する機能も果たしています。ゆえにその機能を適切に解釈した母親はその要求を満たす情報として「もうすぐご飯ができる」、「冷蔵庫にヨーグルトがある」という発話をしていることになります。こうした言語の使用にかかわる側面を研究するのが語用論です。

 

さて、本題の敬語です(ここでは、特に必要ない限り、尊敬語、謙譲語、丁寧語の区別はせずにすべて「敬語」として話を進めます)。敬語とは一般的には「話し手(または書き手)と聞き手(または読み手)と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)との間の地位・勢力・尊卑・親疎などの関係について、話し手(または書き手)が持っている判断を特に示す言語表現」と説明されます(『広辞苑』第六版より引用)。

 

広辞苑の記述が言語学的に妥当かどうかはさておき、この定義からも読み取れる面白いことが一つありますが分かりますか?それは…

 

 

 

 

 

「敬語」なのに、「表現対象に対する敬意を表す」ということではない、ということです。ポイントは「表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)との間の地位・勢力・尊卑・親疎などの関係について、話し手(または書き手)が持っている判断」という部分です。つまり、あくまでも敬語とは「関係認識」の言語様式であって、いわゆる「敬意」とは直接関係がないのです。語用論の観点から言えば、「敬語」の使用は「話し手と表現対象との間に心理的な距離を生み出す」という機能を持っているのです。敬語の表す「敬意」は「距離をとること」によって対象人物を心理的に遠くに置き、そのことによって対象の領域に踏み込まないようにすることから生じる副次的なものなのです。

 

初対面の人に敬語を用いることが多いのもこの「心理的距離」が作用しています。また、夫婦喧嘩の時に奥さんから「わかったわよ、好きにすればいいわ」と言われるのと「わかりました、お好きになさってください」と言われるのとでは、後者のほうが「丁寧」なのにどこか突き放されたような「冷たさ」を感じるのも同様の作用です。

 

さて、ここから上の疑問について極めて単純化して説明を試みます。

 

そもそも、なぜ被害者の父親が尊敬するはずもない犯人に対して「敬語」を用いたのか?

 

事件の発覚以前、この父親は、犯人と娘の夫という極めて近い立場で接していました。一緒に被害者の安否を気遣い、駅前でのビラ配りなどの行動も共にした極めて「共感度」の強い、心理的に距離の近い関係だったわけです(ここでいう「共感度」は久野 (1978)に従い、「文要素の指示対象に対して話し手が抱く自己同一視化の度合い」を表すこととします)。

しかしながら、その身内であるはずの「娘の夫」が娘の命を奪った犯人でした。「娘の失踪に対して共感(自己同一視化)していた相手」が娘の命を奪った犯人だったのですから、その心中たるやはかり知れません。娘の夫は「決して自己同一化できない相手」だったわけです。特に無関心な事件・犯人についてのコメントであれば敬語を使用することもなかったでしょうが、この「突如生じてしまった心的距離」が敬語の使用の動機づけになったものと思われます(もちろん、使用者である被害者の父親にこのような明確な意識があったとは限りません。ここでの説明は全て「無意識による言語使用」を想定しています)。

 

そして、犯人、そして事件そのものを心理的に遠い場所に置いた表現を使用することで、努めて冷静でいようとする気持ちの表れかもしれませんね。

 

参考文献

久野 暲 (1978) 『談話の文法』大修館書店