ことのは塾のことのはブログ

ことばの専門塾を主宰する在野の言語学者が身近な言葉の不思議について徒然なるままに好き勝手語ります。

詐欺メールのおかしな日本語 パート2

 年の瀬となりましたが、皆さまはいかがお過ごしですか?私は今週いっぱいで大学の授業も最終週となり、年明けに期末試験と成績評価を残すのみとなりました。塾に関して言えば、明後日から「冬期集中講座」と題して一般の塾・予備校で言うところの冬期講習が始まります。小さな個人塾ですので特に慌ただしく準備することもないのですが、センター試験前ともあっていつも冬は独特の緊張感があります。

 

 さて、今回は久々にネタが少したまったので、「詐欺メールのおかしな日本語」の第二弾をやりたいと思います。今回は全て「アマゾン」を騙るメールです。まいどまいどよく送ってくるなあと感心しますが、笑ってしまうような日本語で来ることがほとんどですので騙されません。こんなメールを見ても慌ててクリックなどなさらないようお願いします!なお、詐欺メール本文は青字で表記し、その本文中の下線などは断りのない限り私の施したものです。

 

1. Amazon その1

Amazonお客様 
Amazonプライムをご利用いただきありがとうございます。お客様のAmazonプライム会員資格は、2019/10/30に更新を迎えます。お調べしたところ、回避のお支払いに使用できる有効なクレジットカードがアカウントに登録されていません。クレジットカード情報の更新、新しいクレジットカードの追加については、以下の手順をご確認ください。

これは比較的「まともな日本語」で書かれていますので、油断すると引っかかるかもしれません。ただし次の2点(下線部参照)で怪しさに気づきます。

① まず、Amazonを騙る詐欺メールの特徴は必ず宛名が「Amazonお客様」です。本物であれば個人名できちんと届きますので、すぐに怪しいと分かります。そして私はAmazonプライムを会員登録したことは一度もありません。

②「回避のお支払い」って何でしょう?支払わないと何かが衝突するのでしょうか(笑)そう、これは「会費」でしょう。しかし、個人のやり取りならこういう誤植・打ち間違えや変換ミスもあるかもしれませんが、通常大きな企業からのこうしたメールでこのレベルの変換ミスはあり得ません。

こうして、偽サイトへ誘導し、クレジットカードの情報を得ようとする「フィッシング詐欺」の一種ですね。

 

2.Amazon その2

Amazonプライムをご利用頂きありがとうございます。

サービスが現在中断されたという通知です。

このサスペンションの詳細は次のとおりです。

停止理由:アカウントに確認が必要

今すぐ確認する:ログインアカウント(注:実際にはここにリンク)

重要:

7日以内にサービスを更新しないと、サービスは永遠に削除されます。

すべてのアカウントは、データの機密性を確保するために完全に削去されます

その後、データを回復することはえきません

いきなり「サービスが現在中断されたという通知です」ときましたね。利用していないのに(笑)さて、①「このサスペンション」って何でしょう??おそらく「一時停止」「中止」の意味の suspension でしょうが、前の文で「中断」と言っているのだから、わざわざ分かりづらいカタカナで言い換える必要はありませんね。

②「サービスは永遠に削除」ってサービスが削除されてもこちらは困りません。だってサービスはそちらが提供するものであってこちらが何かするものではないので。

③「削去」…謎の言葉です。「削除」+「消去」の混成語(「ゴジラ」=「ゴリラ」+「クジラ」みたいなもの)でしょうか(笑)

④出ました「えきません」(笑)何でしょう??「できません」なら分かります。

もうめちゃくちゃです。

 

3.Amazon その3

平素はAmazon.co.jpをご利用いただき、誠にありがとうございます。 
この度は、突然のご連絡にて失礼いたします。
ご配送会社より中国郵便にて09月18日迄に配送予定とメール、配送中となり受取先不明のせいで、配送不可な状態でありました。

期日が過ぎ、受け取らない場合、返送される予定です。 

ご受取先情報をご修正してください

丁寧なごあいさつを頂いて恐縮ですが、下線部①が全く分かりません。「配送中となり受取先不明のせいで、配送不可な状態でありました」って配送中なの?配送不可なの?配送不可なのに次の文で「期日が過ぎ、受け取らない場合」って配送不可なんだから受け取れないじゃん(笑)そして、②の「よく分からない丁寧語」です。「ご受取」に「ご修正してください」です(笑)この波状攻撃には笑います。

 

4.Amazon その4

Amazonをご利用いただきありがとうございますが、
アカウント管理チームは最近Amazonアカウントの異常な操作を検出しました。
アカウントを安全に保ち、盗難などのリスクを防ぐため、
アカウント管理チームによってアカウントが停止されています。
24時間以内にあなたの情報を更新しない場合、
アマゾンアカウントで何ができるか的を絞ってください。

ログインアカウント(注 本物はここにハイパーリンク

なぜこのメールを受け取ったのだろうか?
この電子メールは、定期的なセキュリティチェック中に自動的に送信されました。当社はお客様のアカウント情報に完全に満足しておらず、引き続きサ ービスを継続的にこ利用いただくためにアカウントを更新する必要があります。

 

親切なくらい「怪しい日本語」を使ってくれています。まず、①「ありがとうございますが、…」を見た瞬間に笑ってしまいました。その後も変な日本語なのですが、とりわけおかしいのが②「アマゾンアカウントで何ができるか的を絞ってください」って(笑)知りません。そもそもどんな選択肢があるのか分かりませんので、的を絞ることは不可能です。そして③において「なぜこのメールを受け取ったのだろうか」と急に独白です。知らんわ!己が送ってきたのだろうよ!④は何がおかしいって「お客様のアカウント情報に完全に満足しておらず」と不満を言われてしまいました。顧客がアマゾン(偽物ですが)を満足させないとダメらしいです。

 

5.Amazon その5

さて、最後はこれです。その1と同じく「Amazonnお客様」で始まりますのでニセモノ確定です。

 

Amazonお客様 

大変申し訳ございません、あなたのアカウントは閉鎖されます。

お客様のメールアドレスは数回に間違いパスワードでAmazonをログインして試しましたので、アカウントを安全に保ち、盗難などのリスクを防ぐために、お客様のAmazonIDはロックされました。
ごIDとパスワードを更新してください。

 

 ①「大変申し訳ございません」も「あなたのアカウントは閉鎖されます」も日本語としては「正しい」のですが、この二つを読点(、)で並列させると日本語の書き言葉としてはおかしくなりますね。そしてわけが分からないのは②です。主述の骨格だけ抜き出すと「メールアドレスは試しました」となり、何を試したのか分かりませんし、そもそも主語がメールアドレスなので極めて不自然です。さらに、「数回に間違いパスワードでAmazonをログインして」などは、質の悪い自動翻訳や(仮にこれが人の手による翻訳だとすると)外国人にとって日本語の助詞がいかに難しいものかが分かる好例です。そして取りを飾るのは③「ごID」です(笑)外来語にまで丁寧語の「ご」や「お」を付ける規則は日本語の規範的文法には存在しません。ニセモノ確定です。

 

いかがでしょうか。とりあえず、今回はニセモノAmazonメール特集でしたが、いずれも普通の日本人であれば「??」という日本語だらけ。そして毎度のことですが送信元のアドレスは 「service02@edm2.hg6fds.com」など、おおよそamazonとは無関係の適当な文字配列です。こんなものに引っかからないよう、内容、日本語、アドレスの3つを確認し、いずれかでおかしいものはニセモノだと判断しましょう。しっかし、毎日のように届くのですが、OCNメールには迷惑メールフィルターってないのでしょうか??こういうのがほぼスルーされて届きます…。

また面白いメールが届いたら第3弾をやります。

英語民間試験導入に絶対に反対する理由

久々の更新です。最近はツイッターの利便性に気が付いてしまい、ついついそちらの方ばかりに意識が向いておりました。

さて、そのツイッターでも散々つぶやいておりますが、私は先日延期になった「英語民間試験導入」に絶対的に反対の立場を取っています。延期ではなく「中止」「廃止」に追い込みたい、本気でそう思って自分なりの行動を続けています。  

世間では萩生田文部科学大臣の「身の丈」失言から一気に認識が広まり、急転直下「延期」となりましたが、ここではっきり申し上げます。民間試験の導入に関する問題は「地域格差・経済格差」だけではないのです。

その導入決定に至るまでの経緯の不透明さ、「教育再生実行会議」や「英語教育の在り方に関する有識者会議」における楽天・三木谷氏や遠藤利明・元五輪相など、「素人」の謎のTOEFLゴリ押し(ぜひ文部科学省のサイトで議事録をご覧ください)、文科省と特定業者(Bネッセ)との癒着にしか見えない関係性、業者の準備不足等、報道で指摘されているところについては読者の皆様もご理解いただいているところかと思います。こうした点についても言いたいことは山ほどありますが、そこは私よりも詳しく説明されている方が沢山いらっしゃるので、ここでは、あくまで言語学・英語学の専門家としての意見を述べたいと思います。

 

1.民間試験を導入しても「英語力」は上がらない

 まず、私には一つも理解できないのですが、どうもこの政策を推し進めた人たちは「センター試験は2技能だからダメ」「民間試験で4技能を測るようにすれば英語力があがる」という共通認識をもっておられるようです。はっきり言います。アホです。だいたい、そんなこと言いつつセンター試験の成績と英語力の相関関係などを示す科学的証拠など一つも出していません。

 確かに、今回導入が予定されていた民間試験の中でもTOEFLやIELTSなど欧米への留学を目的とした試験はセンター試験を始めとした日本の大学入試の英語に比べれば、かなり難易度が高く、一定以上のスコアを出すためには、相当の英語力が要求されます。しかし、それは正直、現在の高等学校の英語教育でカバーできるものではありません。当然、学習指導要領から遥かに逸脱した語彙や表現が多く要求されます(なお、何故か三木谷氏などはTOEFLを「実用英語の試験」とおっしゃっていますが、内容は大学の講義など、いわゆる学術的な英語がびっしり。中身知ってるのか?と言いたいくらい)。国公立の二次試験や私立の個別試験ならいざ知らず、基礎学力の確認を目的とするはずの共通テストはあくまでも指導要領から大きく逸脱してはならないと思います。そうなりますと、現在の状況からして、仮に民間試験の導入が予定通り実施されれば、多くの受験生が申し込むのはそうした海外ベースの試験ではなく、英検やGTECといった日本の試験になるでしょう。ここで大切なのは、今回導入予定だった民間試験はいずれも「今回初めて高校生に向けて実施する試験」ではないということです。多少の形式の変更はありますが、これまで多くの一般社会人・高校生が受けてきたものです。ここで考えてみてください。こうした試験をこれまで自主的に受けてきた受験生の英語力は、一度も受けたことがない人に比べて統計上有意義な違いを生むほど差があるのでしょうか?「教育再生実行会議」や「英語教育の在り方に関する有識者会議」等で、どなたかそうしたことに関心をもって調べた方がいるでしょうか。少なくとも議事録を拝見する限り、おりません。もちろん、全く勉強しない人よりは遥かにできるかと思います。さらに、TOEFL やIELTSなどの受験者が留学を目指して本気で勉強したとすれば、相当の英語力が身につくとは思います。しかし、それは「留学」という目的があって勉強するからこそのこと。そう、仮にTOEFLやIELTSの受験者の英語力が優れているとしても、それはそうした試験が優れているからではなく、その先の留学を見据えた勉強を求められるから、というのが理由なのです。大学受験は目的そのものが違います。また、英検やGTECのように必ずしも留学を目的にしていない試験の場合はどうでしょうか。たとえば、現在大学に在籍する学生のうち英検の「受験経験者」と「受験未経験者」で英語力に差があるということを示す客観的なデータを示して論じている「民間試験導入推進派」は、いらっしゃいますか?管見の及ぶ限りにおいて、皆無です。また、Twitterでこう問いかけた際、推進派の方でしょうか、「そんなものあるわけない。難癖つけるな」という非常に論理的で科学的なリプライを頂きましたが、もちろん難癖ではありません。そのような客観的なデータも証拠もなく大切な国の一大事業たる大学入試センター試験を廃止する方が余程の難癖であり、暴挙です。おそらく両者の成績にそれほど差はないと思いますし、実際に試験のスコアがその人の「英語力」を保証することにはならないと思います。

 なぜなら、日本人学習者は全般的に「試験」となると、その科目の本質を理解し、学ぶことよりも、「合格への最短距離」を行こうとするからです。つまり、英検でもGTECでも出題のパターンや傾向の分析をし、「試験でいかにスコアを出すか」という方に価値を見出してしまう傾向にあるからです。例えば現行のセンター試験は言うに及ばず、国公立大学二次試験、私大の個別試験のいずれも様々な書籍やインターネット上のサイトで「攻略法」が論じられているわけです。ですから、たとえ民間試験を導入しても、こうした「いかに楽に、簡単に点数を取るか」という発想での勉強を止めない限り、スコアの取り方、問題の解き方は上手になるかもしれませんが、その知識のどこまでが「英語力」へと昇華されるかは不透明なわけです。また、これも日本人学習者の多くの悪い癖で、そうした試験で目標となる級に合格したり、目標スコアをクリアすると、もうよほどのことがない限り勉強しません。そのまま繰り返し勉強することはせず、いわば、ペーパードライバーとなります。後述しますが、「英語が出来ないのは学校教育が悪いから」と思っている人のほとんどは、こういう「試験を解くための勉強」しかしたことのない人だと思います。

 

2.大学入試で「4技能」を問う必要性は必ずしもない

 最近こうして入試の諸問題に取り組んでいるせいで、すっかり嫌いになった言葉の一つがこの「4技能」です。もちろん、ここで言う「4技能」とは話す、聞く、読む、書くという言語の4つの側面のことです。特にやり玉にあがるのが、いわゆる「読み書き」です。「日本の学校は読み書きしかやらないから聞いたり話すことができないんだ」というアレです。これもはっきり言います。アホです。これこそただの難癖です。そもそも、こういうことを言う方の多くが現在の中学・高校英語の教科書を見たことがありません。例えば中学校の教科書などは1つのレッスンの半分は会話形式です。中にはレッスンのテーマが「プレゼンテーション」などという高度なものもあります(中学校2年生)。決して読み書きだけをしているわけではありません。以前別の記事にも書きましたが、日本の英語教科書は世間が思うほど悪いものではないのです。例えば、アメリカ人の言語学者であり、東京大学教授であるトム・ガリー(Tom Gally)さんがその著書の中で次のように述べています。「数年前、私は日本の中学生向け英語教科書を校閲した。初級の教科書であったから、使用できる語彙や文型が厳しく制限されており、不自然な表現が若干あった。それでも、全体としては英語が正しく説明されていたし、内容も面白く、良い教科書だったと思う。」(トム・ガリー『言葉のあや』研究社)いかがですか。ネイティブの目から見ても決して日本の教科書が悪いものでないことがわかります。「不自然な表現が若干あった」のは、日本の教科書が、文部科学省が定める「学習指導要領」によって、使用できる単語の数や文法事項などを厳しく制限しているためです。

 さらに、これもはっきり言いますが「読み書きばかりだ」と言う人の中に本当に「読み書きをしっかりできる人」がいたためしはありません。たいてい英語の勉強なんて試験勉強以外やってこなかった人です。

 そもそも、4技能なんて言うからこの4つの側面が独立しているような印象になっていますが、そんな馬鹿な事はありません。それぞれ多少の不均等はありますが、必ずつながっています。つまり、どれか1つだけ飛びぬけてできるようなこともあり得なければ、どれか1つだけ極端にできないなどということもない、それが言語なのです。もう少し具体的に言えば、4つの技能は入力系(reading, listening)と出力系(writing, speaking)にまとめられます。それぞれのペアが比較的結びつきの強いことが推察できます。readingに強い人はlisteningにもそれなりの力を発揮しますし、writingができる人はそれなりにspeakingもできるはずです。

 学生時代に指導教官の先生は、繰り返し「1書きたかったら10読め。1話せるようになりたかったら10書け」とおっしゃっていました。つまり、「1話せるようになりたかったら100読め」ということです。私は仕事柄英語で論文を書きます。ALTの研修では当然英語で母語話者相手に英語の指導法の研修などをします。でも特別な勉強はしていません。ベースは普通の中学校・高校英語です。ただし、中学校から一貫して続けている勉強が二つあります。それは「新たに単語や表現を覚える場合には全て例文で覚える」ということ、そして「毎日英語の本を読むこと」です。英語は言葉です。何らかの形で使えるようにならないと無意味です。でもその場合、触れて覚えて使うというサイクルを繰り返さねば身につきません。一度にすっと頭に入るはずもなく、何度も何度も間違えながら必死に覚えていくわけです。こうしてようやく正しい文法と表現が身につき、正しく読み書きができるようになるわけです。「文法はできるけど読めない」「読めるけど書けない」「書けるけど話せない」などと言う人は、結局その「できると思っている方もあまりできていない」と認識するべきなのです。ですから、4技能的な総合力を測るには、私は必ずしもそのすべてを試験形式で問う必要はないと考えます。現状、国公立大学の二次試験では必要のある学部・学科であれば必ずスピーキング、ライティングの問題は出題されています。一次試験では、リーディング、リスニングの試験となりますが、上で述べたように、4つの側面は互いに連動していますので、リーディング、リスニングの試験で十分その受験生の英語の総合力を推し量ることはできます。つまり、現行のセンター試験+大学の個別試験で十分「高校までの英語学習の成果」は確認できるのです。

 実際に、こうした「4技能」の関連性を実証する研究があります。牧 (2019) (「岐阜大学地域科学部学生のTOEFL iBT得点獲得傾向」『岐阜大学地域科学部研究報告』vol.44, 49-53.)によれば、読解(reading)と聴解(listening)の得点と、話すこと(speaking)と書くこと(writing)の得点には有意な相関関係が見られ、ゆえに読解と聴解の得点から、学習者の話す、書くの能力を推定することが可能であることが示されています(牧 (2019: 53))。「4技能が~」と無駄に騒ぐ前にこうした専門知を無視しないで欲しいものです(本研究についてtwitterで情報を提供してくださった東京大学阿部公彦先生に感謝いたします)。

 

3.「英語教育改革」は「英語ができない爺さんたちの逆恨み」

 ここまでのお話しで、民間試験導入には学術的な根拠がなく、センター試験でも十分英語力は測れることはお分かりいただけるかと思います。最後に触れておきたいのは、英語民間試験の活用を始めとする今回の入試改革は官邸主導で行われているということです。さらに遡れば、「官邸主導=経済界からの要請」ということです。細かいことは一部のTV局や週刊誌が頑張ってくれていますのでそちらにお任せいたしますが、私がここで、このバカな「改革」とやらを推し進めようとした魑魅魍魎諸氏に言いたいのは、

「学問や学術研究及びそれに従事する研究者をバカにするな!」

ということです。小学校英語の導入の際も、民間試験の導入についても、英語教育・応用言語学の専門家の方の中には警鐘を鳴らす方々も少なからずおりました。我々のような理論言語学者も当然、異論を唱えました。しかし、現政権はそうした専門知を積極的に活用するどころか、無視し続けています。重要な会議に専門家がだれ一人いないこともありますし、そうした政府の諮問機関によって話し合われたことが、国会の審議を経ずに閣議決定されてしまうなど、密室で決まってしまうことが多すぎます。今話題が英語民間試験から共通テストの記述問題(国語・数学)に移っていますが、本質は変わりません。自分たちに都合の良い働きをしてくれるであろう「御用学者」や教育・言語・試験に関する専門知識を全く持たない素人「有識者」が力づくで進めるわけです。こんなバカな連中に日本の教育、学術研究が破壊されているのだということをもっと一般の方に広めていく必要がある。私は、研究者として、大学教員の末席を汚すものとして、現状は絶対に許せないのです。

 この裏には、予算配分を握る財務省の圧力も忘れてはいけません。財界からの圧力を受けた財務省文科省に圧力をかけ、そして文科省は大学に圧力をかける。さながら食物連鎖です。文科省を少しだけ擁護すると、教育・学術研究に対する予算は年々厳しくなっています(トウモロコシ買ったり、防衛費増やしたりはできるのに)。そこで、確実に予算を取るために文科省は知恵を絞る必要があるわけです。そこで「金のなる木」として毎回利用されるのが英語なわけです。「こうすれば日本人が英語できるようになるよ!」と、できもしない花火を打ち上げる必要があるわけです。

 しかし、教育は国家百年の計と言われるほど、国の大切な柱の一つです。それを、どう考えても、英語のできない社会的に地位だけは高い連中の「逆恨み」で破壊されるのを黙ってみているわけにはいかないのです。そういう連中に限って「中高大と10年近く英語を勉強したのにできないのは教育がおかしい」と言うのです。じゃあ、あなた方、まさか中学生から高校生にかけて毎日1日も休まず英語を勉強したんでしょうね??教科書のまる覚えくらいやりましたね??大学入試まで毎日英単語は例文で覚えて語彙力10,000超えしましたよね?それくらいやって一つも話せないわけないんですけど。さらに、「英語の教育はダメ」だったとしたら、そうでない数学は万遍なくできるのですか??国語に関しても、日本語で人並み以上に論文の1本や2本書けるのですよね?あなたたちが新聞や雑誌などに寄稿している「論文」、ただの下手くそなエッセイですからね!私が指導教員なら完璧にボツです。なのに、なぜ英語だけなのですか?英語なんかよりも「云々」を「でんでん」って読んでしまうそのお粗末な国語力の方が大問題だと思いませんか??

 正しく認識していただきたいことは、母語の能力を超えて、外国語の能力を身につけることはできないということです。本当に国が「英語を使える日本人」を増やしたいのなら、①母語である日本語をしっかり身につけさせる教育をすること、②正しい言葉を使用できるよう英文法教育を充実させること、③徹底的に読解力を高め、抽象的思考に耐えうる語彙力を身につけること、の3つが大切だと私は思います。もう少し踏み込んで言ってしまえば、今述べた①~③を目標とするレベルや分野に応じて個人が好きなだけやればいいのです。最終的には目標に応じた分野やレベルの英語(English for specific purposes)をやるべきであり、 学校はその基盤を提供する場であるべきなのです。必要のない人に必要のないことを課す必要はないのです。

 とにかく、まだまだ新テストの廃止のために闘います。

 

『天気の子』の英語サブタイトル

今回は、大ヒット中の映画『天気の子』についてです。

とはいっても、映画の内容についてのコメントではありません。サブタイトルの Weathering with Youについてです(ポスターなどではwithも大文字で始まっていますが、これは英語のタイトルの表記法としてはダメです。前置詞は小文字で)。

 

この Wearhering with you. ってどんな意味なのだろう?と疑問に思った方も多いでしょう。実際、すでにネットではこの意味について書かれているものも多く、英単語weather の持つ様々な意味を紹介したうえで、新海誠監督ご自身の「『Weather』という気象を表す言葉を使いたくて。これには嵐とか風雪とか、何か困難を乗り越えるという意味も含まれるんです。映画は何か大きなものを乗り越える物語でもあるので付けました。」というインタビュー記事を引用して説明している記事を多く見かけます。確かに weather には、以下の意味があります(図はhttps://yuuchan-english.com/2019/07/01/2743/から借用致しました)。

ジーニアス英和辞典での定義
Weather
【名詞】
①天気
悪天候、暴風雨
③天気予報

 

【動詞】
①風化させる
(嵐・困難などを)切り抜ける

監督もよくお調べになったと思います。weather にご自分の想いに合致する意味があると分かった時、きっと「これだ!」とお思いになったことでしょう。

しかし、結論から言えば、残念ながら新海監督の願いむなしく、このサブタイトルは意図通りに読んではもらえません。海外でのプロモーションも前作『君の名は。』以上に力を入れていたとのことですので、どなたか英語に堪能なスタッフがもう少し英語の文法面にも気を遣われた方が良かったのではと思います。

では、何故、この英語(Weathering with you) ではダメか、という理由を説明します。

まず、新海監督の意図としては、上の図でいう動詞②の意味であるとのことですが、これは他動詞の用法です。つまり、weather単独でこの意味として使用することはできず、直後に何らかの名詞(嵐や困難などの意味を持つもの)が来ないとダメです。weather a storm (嵐を切り抜ける)、weather the economic crisis(経済危機を切り抜ける)などが正しい使い方です。

 

今回のサブタイトルには目的語がなく、weather の直後には、前置詞句 with you が生起しています。したがって、英語母語話者はどう贔屓目に見ても「困難・嵐を切り抜ける」ではなく、自動詞として解釈せざるを得ません。まだ直後に through 句があれば自動詞でも「~を切り抜ける」(例:weather through a storm)とできるのですが、今回はそれもありません。したがって、今回はどうあがいても

「外気で変化(変色、風化)する」

という意味にしか読み取れないことになります。ですから、サブタイトルは「君と共に風化する(変色する)」となります(笑)

 

こう言うと「そうは言っても、海外の人も内容を見れば正しく解釈してくれるはず」という反論が聞こえてきそうですが、はっきり言いますと、それはあまり望みがありません。それは日本語の性質を念頭に置いた希望的観測だからです。日本語は文脈依存的な部分が多くありますが、英語は極めて文法依存度の高い言語です。文脈上理解できる範囲であっても目的語を簡単に省略できるような言語ではありません。たとえ

I like apples. *I bought yesterday.

のように、どう考えても目的語はapplesだろうと分かるものでも、ダメなものはダメなのです。

 

海外でもヒットが予想される邦画はそういう細かいところまで気を遣うべきかと思います。新海監督の熱い想いが正確に伝わるものでなければ無意味ですから、ね。

 

時・条件を表す副詞節

学校英語で必ず学習する重要事項の一つに「時・条件を表す副詞節中では未来のことでも動詞を現在形で表さねばならない」というルールがあります。

 

(1)       ○      If it rains tomorrow, I’ll stay home.

            ×      If it will rain tomorrow, I’ll stay home.

(2)       ○      Let’s wait till the rain stops.

            ×      Let’s wait till the rain will stop.

 

ここで、多くの学習者の皆さんが疑問に思うのは、「なぜ、こうした『時・条件の副詞節』ではwillを使えないのか?」ということです。参考書やネットで検索をかけてみると、様々な方が様々な「説」を披露されています。

 

(3)       説1 

 英語はその昔、「不確定」なことに対しては「動詞の原形」が使われていた。「未来」ということは「事柄が確定していない」ということ。それらはすべて「動詞の原形」が使われていた。それがいつしか現在形にとってかわった。(https://www.makocho0828.net/ 参照)

 

(4)       説2

 主節を見れば未来に関することだと分かるから、従位節中の動詞は、それとの関連で、形は現在形でも、主節とおなじ未来のことだと分かる。

(『実践ロイヤル英文法』旺文社)

 

(5)       説3

「実現を前提として・実現しているとみなして」いるので、未来のことでも動詞は「現在起こっていることを表す、現在形」を使って表す。(https://beyond-je.com/if-time-clause/#i-2 参照)

 

だいたいこういう説が多いかなと思います。この説を書いた方々(特に (3) や (5) の説を書いたブロガーの方)がどの程度専門知識をお持ちか分かりかねますが、念のために申し添えると、(3)の説1は歴史的な事実としては妥当性が高いとされる説です。この説に近い立場に安藤(2005)『現代英文法講義』があります。安藤によると、元来、時・条件の副詞節では「叙想法現在」が用いられ、動詞は「原形」で表現されました(例:If it be achieved, I have cause to return thanks.「それが成就されるなら、こちらも感謝せねばならない」)。これが、代用形としてshall+原形の形が用いられるようになり、やがて現在のように現在形へと変化しました。では、どうして現在形になったのでしょう?参照したブログの筆者さんの言うように「いつしか現在形になった」というだけでは当然説明として不十分です。この点について、安藤(2005)は「(ifやwhenなどの時・条件の副詞節は)時間の区別が関与しない、単なる命題を表しているので、その目的に最もよく適したものとして、時間に関して中立的な現在時制が選ばれている」と言います。

 まず、「現在時制が時間に関して中立的である」とはどういうことでしょうか?おそらく、現在時制が過去を表したり(「歴史的現在」や「年代記の現在」など)、未来を指したり(確定的未来)できることを指しているものと思われます。しかし、私見では、「歴史的現在」や「年代記の過去」などは「現在形が過去を指している」のではなく、現在形を用いることで「過去のことをまるで眼前で起こっているかのように描写する」ための修辞表現であり、決して「現在形」が「時制に中立」ということではないと思います。さらに、「時・条件の副詞節には時間の区別が関与しない」というのもおかしな話です。これが正しければ、未来の記述に限らず、どのような文脈でも(つまり、過去形の文でも)常に現在形をとるはずです。というわけで、結局この説は「どうして未来のことなのに現在形なのか?」という疑問に答えてはいません。

 (4)の説2は旺文社の『実践ロイヤル英文法』の記述ですが、別にこの参考書の筆者のオリジナルではありません。この説の元は、有名な文法学者の O. Jespersen (オットー・イェスペルセン)です。要するに、「主節にwillがあるのだから、わざわざ副詞節にも同じ情報を入れる必要はない」ということです。この説も一見正しそうなのですが、次の例を見てください。

 

(6)       Phone me as soon as you arrive there.

            (向こうに到着したらすぐに電話して)

 

この文のように主節にwillが出ていないものあります。主節にwill がないのに副詞節内は現在形ですね。確かに、この文の場合、「命令」だから、「電話をする」のを実行するのは「未来」なので、それで十分に「未来」であることは伝わる、とも言えます。しかし、それでは「主節が未来だから副詞節も未来として解釈する」ということは理解できますが、それ自体が「なぜ副詞節において現在形を選択するのか」ということの説明にはなっていません。その説明なら、副詞節内は現在形でも過去形でも良いことになりますし、だったら、上で紹介した叙想法現在(つまり、動詞の原形)の方が時制に中立的(つまり、未指定の状態)で一層良いはずです。でも、現実としては現在形が選択されるのです。

 では、(5)の説3はどうでしょう?結論から言うと、ここで私の考えに最も近いのはこの方の説です。詳しい説明の前に、次の例文を見てください。

 

(7)       時・条件を表す副詞節を含む文の例

  a. We’ll start the meeting when Jack comes back.

           (Jackが戻ってきたら会議を始めます)

  b. Wash your hands before you eat something.

           (食べる前に手を洗いましょう)

  c. Give me a call as soon as you find him.

           (彼を見つけたらすぐに電話をください)

  d. I’ll go out after I have finished my homework.

           (宿題を終えたら出かけます)

 

いずれも副詞節内の事象が必ず起こることを「前提」としています。つまり、主節の出来事は副詞節内の出来事の成立の上に成り立っているのです。具体的に言えば、(7a)は「Jackが戻ったら会議を始める」ということですので、逆に言えば「Jackが戻らなかったら会議は始まらない」ことになります(実際には始めるでしょうが、言語表現の上では、ということです)。(7b)は「何か食べる」から「手を洗う」のであって、その逆ではありません。「何も食べない」のであれば(実際には衛生上気になりますが)手を洗う必要はないのです。(7c)も「彼を見つける」という行為は「私」に電話を掛けるための前提条件です。見つけるまでは電話の必要はないわけです。(7d)も同様です。宿題を終えたら出かけるのですから、終えない限りは出かけることはないということになります。

 

一見、こうした説明の例外となるのは次の例文です。

 

(8)       You won’t pass the test unless you study hard.

            (頑張って勉強しないと、テストに受からないよ)

 

確かに、この文の場合、「テストに受からない」ことは「頑張って勉強する」ことの成立を前提とはしていません。しかしながら、A unless Bという表現の意味は「Bの成立が事象Aの成立を阻害する唯一の条件である」ということです。ですから、(8)は「テストに受からない」という文字通りの予測を伝えたいのではなく、語用論的には「そうなりたくなければ勉強しろ」という意味であり、ゆえに(8)は

 

(9)       Study hard, and you’ll pass the test.

(10)     You’ll pass the test only if you study hard.

 

と実質同じ意味を持ちます。したがって、その意味でunless内の出来事の成立を前提としているのです。

 

 以上のことから、説3が最も妥当なものである、と考えられます。どれが絶対的に正しいかということも学術的には大切かもしれませんが、学習者としては納得しやすい説にしたがうという程度で十分です。

チコちゃんに叱られてしまうかもしれませんが…

 本当は違うテーマを先にアップしようと思っていたのですが、こちらが仕上がったので久々に更新いたします。

 

2019年7月5日に放送された『チコちゃんに叱られる』(NHK)で、扱われたテーマのひとつに「なぜ弟ちゃん妹ちゃんと呼ばない?」があり、その解説がネットで話題となっているようです。

 

 「お兄ちゃん」、「お姉ちゃん」とはよく言うが「弟ちゃん」、「妹ちゃん」とは基本的に言いませんね。チコちゃんによると、「家族の呼び方は一番下の子を基準に決まるから」ということだそうです。一番下の子供から見た呼び名が影響しているとのことです。

 

 一番下の子供は上の子供に対して「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と言うことはありますが、上の子が「弟ちゃん」「妹ちゃん」と呼ぶことはほとんどありません。日本では目上の家族に対して「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」「お父さん」「お母さん」と呼ぶことが多いですね。番組では、これを「親族呼称」という言い方で紹介していました。

 

 番組での解説は次のようになります。氏名には苗字と名前がありますが、古来の日本では、個人を表す名前を神聖なものと扱っていたといいます。名前で呼ぶということはその人自身を支配しているとされ、無礼と考えられていたとのことです。したがって、家族であっても目上の人に対し名前を呼ぶことは失礼に当たることから「親族呼称」を使ったのがはじまりであり、それが現在まで続いているという内容でした。

 

 確かに、そういう「文化的側面」は否定しませんが、ここではもう一つの「ものの見方」、すなわち「言語学的側面」を紹介します。言語学的に言うと、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」は、「関係名詞(relational nouns)」と言います。これは、簡潔に言えば「他の事物との関係性において定義される名詞」のことです。例えば家族関係における「兄」「姉」という名詞は「同じ親から生まれた年上の男/女」(『広辞苑』)となります。これはつまり、「兄」や「姉」は「弟」や「妹」の存在があって初めて意味を成すということを表しています。弟・妹がいなければ「兄」にも「姉」にもなれないわけです。「お父さん」「お母さん」も同様です。「子ども」の存在があって初めて「お父さん」「お母さん」となるわけです。

 

 こうした事情を踏まえて、「なぜ下の子が『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』と呼ぶのに、上の子が『弟ちゃん』『妹ちゃん』と呼ぶことはないのか」という問いに対する言語学的な回答は「『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』という言葉は、弟・妹の存在が前提となっている表現だから」ということになります。兄/姉がいて弟/妹がいるのではなく、前提、あるいは基準となる弟/妹がいて初めて人は兄/姉になるから、ということですね。その証拠に、逆にもし兄や姉が基準となる言い方であれば、「弟ちゃん」「妹ちゃん」と呼べるようになります。「保育園のお友だちの弟ちゃんが来てくれました」などです。この場合話者は「弟」ではなく「保育園のお友達」の存在を前提・基準にしています。つまり、この話者にとっては、顔見知りである「保育園のお友達」がいて初めてその「弟」が意味を成すわけです。

 

 これでチコちゃんに叱られずに済むかどうか分かりませんが、こんな見方もあるよ、ということでした!!

教科書の英語、学校の英語はダメなのか?

よく学校の英語を批判する方がいます。

「海外で学校の英語が通じなかった」

「中学・高校・大学で10年近く英語を勉強したのに聞き取れない、話せない」

「学校の教科書の表現なんて実際には使わない」

などなど、散々な言われようです。

 

中には、教科書で見かける個別の表現をやり玉に挙げる方もいます。

「“This is a pen.” なんて一生使わない」

「“I am a boy.” “Are you a boy?” なんて見ればわかる。絶対に使わない」

こういう人は、絶対に英語が苦手な人です。或いは得意であっても、学校以外の勉強で英語を身につけた(と思っている)人でしょう。果たして、学校の英語は本当にダメなのでしょうか?

 

結論から言います。決して「ダメ」ではありません。その証拠に英語母語話者である東京大学教授のトム・ガリー(Thomas Gally)氏は、その著書『英語のあや: 言葉を学ぶとはどういうことか』(研究社)の中で、日本の教科書について次のように述べています。

 

「数年前、私は日本の中学生向け英語教科書を校閲した。初級の教科書であったから、使用できる語彙や文型が厳しく制限されており、不自然な表現が若干あった。それでも、全体としては英語が正しく説明されていたし、内容も面白く、良い教科書だったと思う」(p.59)

 

多くの方がご存知の通り、日本の教科書は文科省の検定を受けて合格しなければなりません。検定では、語彙や表現、内容などについて、『学習指導要領』(これが、ガリー氏の言う厳しい制限の根拠です)に基づいて厳しく審査されます。これは、中学生や高校生の発達段階を考慮してのことです。ですから、若干不自然な表現が出るのは仕方ないこととして、ガリー氏のようなネイティヴスピーカーから見ても「良い教科書」であることを日本人は自覚した方が良いと思います。なんでも批判すれば良いものではありません。

 

上で批判の的となる例として、“I am a boy.”や “Are you a boy?”を挙げました。本当にこれらは「男の子かどうかなんて見ればわかるのだから、一生使わない」のでしょうか?

 

そうした批判は以下の二点において妥当ではありません。

 

第一に、“I am a boy.” も “Are you a boy?” も、実際に使用することは決してまれなことではない、ということです。次の例を見てください。

 

(1)      Mother: You shouldn’t use such nasty words! Are you a boy?

            Daughter: No! I am obviously a girl.

            母:そんな下品な言葉使わないで。男の子なの?

            娘:違うもん。どっから見ても女の子だもん。

(2)       Are you a girl, because I heard you are a boy?

            君は女の子なの?だって男の子だって聞いていたから。

 

「あなたそれでも男の子(女の子)なの?」などと言う場面・状況は決してまれなものではありません(最近はこうした「男の子らしく」「女の子らしく」という言動がハラスメントになる可能性があるようですが…ここでは無視します)。

 

“This is a pen.” だってそうです。次の例を見てください。

 

(3)       A: What is it that you have in your hand?

            B: This is a pen, though it doesn’t seem to be.

            A: 手に持っているのは一体何?

            B: これはペンだよ。そう見えないんだけど。

 

“I am a boy (girl).” も “This is a pen.” も「見れば分かるのだから使わない」という単純なものではないことが分かるはずです。そういった批判は言葉に対する想像力が欠如していると言わざるを得ません。

 

第二に、“I am a boy (girl).” も “This is a pen.” もいわゆるコピュラ文(「AはBだ」の文)という重要文の一例です。コピュラ文は自然言語の中でも最も単純かつ基本的な文ですが、その意味は多様です。英語では(学者により違いはありますが)少なくとも次の4種類のコピュラ文(A is B.の文)があることが知られています(cf. Higgins (1973), Declerck (1988) など)。

 

(4)       叙述文(predicational sentence)  

            The lead actress in that movie is terrible.

            (あの映画の主演女優はひどい)

(5)       同定文(identificational sentence)

            That woman is the lead actress in that movie.

            (あちらの女性があの映画の主演女優です)

(6)       指定文(specificational sentence)

            The lead actress in that movie is Audrey Hepburn.

            (あの映画の主演女優はオードリー・ヘップバーンだ)

(7)       同一性文(identity sentence)

            The lead actress in that movie is the lead actress in this play.

            (あの映画の主演女優はこの演劇の主演女優だ)

 

厳密な定義ではありませんが、この4つはそれぞれ大まかに次のような特徴の文と考えてください(同定文と同一性文を特に区別しない立場の学者もいます)。

 

(8)       叙述文:コピュラ文A is Bにおいて、BがAの属性を記述する文。

(9)       同定文:コピュラ文A is Bにおいて、BがAの指示対象を他から識別する文。

(10)     指定文:コピュラ文A is Bにおいて、名詞Aに含まれる変項x を満たす値Bを指定する文(つまり、(6) の文の意味は、"the x who is the lead actress in that movie is Audrey Hepburn."ということ)。

(11)     同一性文:コピュラ文A is Bにおいて、A の指示対象を念頭におき、それがBの指示対象と同一であると認定する文。

 

この定義で言えば、I am a boy./This is a pen. は叙述文に分類されます。これらの文における名詞Bの冠詞がtheに変わるだけで、意味も大きく変わります。

 

(12)     I am the boy that you were taking about then.

            (私が、あなた方があの時話していた男の子なのです)

(13)     This is the pen that I have been looking for.

            (これが私のずっと探していたペンですよ)

 

いずれも「同一性文」の解釈となります(意味の違いがはっきりするように、関係詞で情報を明確にしました)。このように、一見単純な A is B という形式の文ですが、その意味は多様です。A is B は一般の学習者の想像以上に複雑なのです。

 

こうした観点から見ると、中学校の教科書は本当によくできていると思います。作成された先生方の苦労が見えるようです。例えば、次の対話は三省堂 New Crown 1 Lesson 2(p.33)のものです。

 

(14)     Meiling:      That is Kumi. She is good at kendo.

            Ms Brown: Is she your friend?

            Meiling:     Yes, she is.  That is Mr Sato.

            Ms Brown: Is he a PE teacher?

            Meiling:     No, he isn’t. He is a math teacher.

 

まず、最初の That is Kumi.(あれは久美です)は同一性文です。二文目の She is good at kendo.(彼女は剣道が得意です)は、叙述文ですね。以下、Is she your friend?/ Is he a PE teacher? / He is a math teacher.が叙述文、That is Mr Sato.が同一性文となっています。

 

場面としてはメイリンがブラウン先生にクラブ活動の様子を案内していますので、同一性文の“That is Kumi.” や “That is Mr Sato.” は、メイリンが指をさしながら話している様子が想像できます。こうしてthatの指示対象を指で示しながら、be動詞の補部にKumi やMr Satoを置くことで、that の指示対象とそれらの固有名詞の指示対象が同一であると認定しているのです。一方、叙述文のShe is good at kendo.や He is a math teacher.は、その前の同一性文で導入されて話題となっているshe/heの指示対象の属性(性質・特徴)を記述しています。このように、二つの異なるコピュラ文を自然な(あるいは、自然に近い)形で文脈に取り入れていることが分かります。決して教科書の文は機械的な、不自然な文例ではないのです。

 私自身、英語の勉強として中学校の3年間は教科書の丸暗記しかしませんでした。高校では、重要単語は全て辞書の例文で覚えました。今の私の英語力の基礎・基盤はこれだと思います。教科書や辞書の例文を基礎として叩き込むことで、英語母語話者に英語の指導ができる程度の英語力が身についたと言っても過言ではありません。ことのは塾では、中学生・高校生の塾生さんには必ず中学教科書・重要単語を含む例文の暗唱を実施して貰っています。しっかりと実行すれば必ず英語力は身につきます。

「一円を笑うものは一円に泣く」と言いますが、英語学習では「A is B を笑うものはA is Bに泣く」どころか「英語に泣く」ことになると思います。こうした単純に見える文ほど丁寧に学んでいくことが大切なのです。学校の英語は役に立たない、などと批判する前に、自分の勉強について「質と量」を見つめ直すことが大切だと思います。「自分は学校の英語を批判できるほど英語をまじめに勉強したか?」ということです。こういう姿勢でいれば、焦って高い授業料を払って英会話学校に通ったり、楽して英語を身につけようと「聞き流し教材」などという無駄なモノにお金と時間を浪費せずに済みます。本気で英語を勉強するなら、まずは教科書の暗唱からスタートしてみてはいかがでしょうか?