ことのは塾のことのはブログ

ことばの専門塾を主宰する在野の言語学者が身近な言葉の不思議について徒然なるままに好き勝手語ります。

教科書の英語、学校の英語はダメなのか?

よく学校の英語を批判する方がいます。

「海外で学校の英語が通じなかった」

「中学・高校・大学で10年近く英語を勉強したのに聞き取れない、話せない」

「学校の教科書の表現なんて実際には使わない」

などなど、散々な言われようです。

 

中には、教科書で見かける個別の表現をやり玉に挙げる方もいます。

「“This is a pen.” なんて一生使わない」

「“I am a boy.” “Are you a boy?” なんて見ればわかる。絶対に使わない」

こういう人は、絶対に英語が苦手な人です。或いは得意であっても、学校以外の勉強で英語を身につけた(と思っている)人でしょう。果たして、学校の英語は本当にダメなのでしょうか?

 

結論から言います。決して「ダメ」ではありません。その証拠に英語母語話者である東京大学教授のトム・ガリー(Thomas Gally)氏は、その著書『英語のあや: 言葉を学ぶとはどういうことか』(研究社)の中で、日本の教科書について次のように述べています。

 

「数年前、私は日本の中学生向け英語教科書を校閲した。初級の教科書であったから、使用できる語彙や文型が厳しく制限されており、不自然な表現が若干あった。それでも、全体としては英語が正しく説明されていたし、内容も面白く、良い教科書だったと思う」(p.59)

 

多くの方がご存知の通り、日本の教科書は文科省の検定を受けて合格しなければなりません。検定では、語彙や表現、内容などについて、『学習指導要領』(これが、ガリー氏の言う厳しい制限の根拠です)に基づいて厳しく審査されます。これは、中学生や高校生の発達段階を考慮してのことです。ですから、若干不自然な表現が出るのは仕方ないこととして、ガリー氏のようなネイティヴスピーカーから見ても「良い教科書」であることを日本人は自覚した方が良いと思います。なんでも批判すれば良いものではありません。

 

上で批判の的となる例として、“I am a boy.”や “Are you a boy?”を挙げました。本当にこれらは「男の子かどうかなんて見ればわかるのだから、一生使わない」のでしょうか?

 

そうした批判は以下の二点において妥当ではありません。

 

第一に、“I am a boy.” も “Are you a boy?” も、実際に使用することは決してまれなことではない、ということです。次の例を見てください。

 

(1)      Mother: You shouldn’t use such nasty words! Are you a boy?

            Daughter: No! I am obviously a girl.

            母:そんな下品な言葉使わないで。男の子なの?

            娘:違うもん。どっから見ても女の子だもん。

(2)       Are you a girl, because I heard you are a boy?

            君は女の子なの?だって男の子だって聞いていたから。

 

「あなたそれでも男の子(女の子)なの?」などと言う場面・状況は決してまれなものではありません(最近はこうした「男の子らしく」「女の子らしく」という言動がハラスメントになる可能性があるようですが…ここでは無視します)。

 

“This is a pen.” だってそうです。次の例を見てください。

 

(3)       A: What is it that you have in your hand?

            B: This is a pen, though it doesn’t seem to be.

            A: 手に持っているのは一体何?

            B: これはペンだよ。そう見えないんだけど。

 

“I am a boy (girl).” も “This is a pen.” も「見れば分かるのだから使わない」という単純なものではないことが分かるはずです。そういった批判は言葉に対する想像力が欠如していると言わざるを得ません。

 

第二に、“I am a boy (girl).” も “This is a pen.” もいわゆるコピュラ文(「AはBだ」の文)という重要文の一例です。コピュラ文は自然言語の中でも最も単純かつ基本的な文ですが、その意味は多様です。英語では(学者により違いはありますが)少なくとも次の4種類のコピュラ文(A is B.の文)があることが知られています(cf. Higgins (1973), Declerck (1988) など)。

 

(4)       叙述文(predicational sentence)  

            The lead actress in that movie is terrible.

            (あの映画の主演女優はひどい)

(5)       同定文(identificational sentence)

            That woman is the lead actress in that movie.

            (あちらの女性があの映画の主演女優です)

(6)       指定文(specificational sentence)

            The lead actress in that movie is Audrey Hepburn.

            (あの映画の主演女優はオードリー・ヘップバーンだ)

(7)       同一性文(identity sentence)

            The lead actress in that movie is the lead actress in this play.

            (あの映画の主演女優はこの演劇の主演女優だ)

 

厳密な定義ではありませんが、この4つはそれぞれ大まかに次のような特徴の文と考えてください(同定文と同一性文を特に区別しない立場の学者もいます)。

 

(8)       叙述文:コピュラ文A is Bにおいて、BがAの属性を記述する文。

(9)       同定文:コピュラ文A is Bにおいて、BがAの指示対象を他から識別する文。

(10)     指定文:コピュラ文A is Bにおいて、名詞Aに含まれる変項x を満たす値Bを指定する文(つまり、(6) の文の意味は、"the x who is the lead actress in that movie is Audrey Hepburn."ということ)。

(11)     同一性文:コピュラ文A is Bにおいて、A の指示対象を念頭におき、それがBの指示対象と同一であると認定する文。

 

この定義で言えば、I am a boy./This is a pen. は叙述文に分類されます。これらの文における名詞Bの冠詞がtheに変わるだけで、意味も大きく変わります。

 

(12)     I am the boy that you were taking about then.

            (私が、あなた方があの時話していた男の子なのです)

(13)     This is the pen that I have been looking for.

            (これが私のずっと探していたペンですよ)

 

いずれも「同一性文」の解釈となります(意味の違いがはっきりするように、関係詞で情報を明確にしました)。このように、一見単純な A is B という形式の文ですが、その意味は多様です。A is B は一般の学習者の想像以上に複雑なのです。

 

こうした観点から見ると、中学校の教科書は本当によくできていると思います。作成された先生方の苦労が見えるようです。例えば、次の対話は三省堂 New Crown 1 Lesson 2(p.33)のものです。

 

(14)     Meiling:      That is Kumi. She is good at kendo.

            Ms Brown: Is she your friend?

            Meiling:     Yes, she is.  That is Mr Sato.

            Ms Brown: Is he a PE teacher?

            Meiling:     No, he isn’t. He is a math teacher.

 

まず、最初の That is Kumi.(あれは久美です)は同一性文です。二文目の She is good at kendo.(彼女は剣道が得意です)は、叙述文ですね。以下、Is she your friend?/ Is he a PE teacher? / He is a math teacher.が叙述文、That is Mr Sato.が同一性文となっています。

 

場面としてはメイリンがブラウン先生にクラブ活動の様子を案内していますので、同一性文の“That is Kumi.” や “That is Mr Sato.” は、メイリンが指をさしながら話している様子が想像できます。こうしてthatの指示対象を指で示しながら、be動詞の補部にKumi やMr Satoを置くことで、that の指示対象とそれらの固有名詞の指示対象が同一であると認定しているのです。一方、叙述文のShe is good at kendo.や He is a math teacher.は、その前の同一性文で導入されて話題となっているshe/heの指示対象の属性(性質・特徴)を記述しています。このように、二つの異なるコピュラ文を自然な(あるいは、自然に近い)形で文脈に取り入れていることが分かります。決して教科書の文は機械的な、不自然な文例ではないのです。

 私自身、英語の勉強として中学校の3年間は教科書の丸暗記しかしませんでした。高校では、重要単語は全て辞書の例文で覚えました。今の私の英語力の基礎・基盤はこれだと思います。教科書や辞書の例文を基礎として叩き込むことで、英語母語話者に英語の指導ができる程度の英語力が身についたと言っても過言ではありません。ことのは塾では、中学生・高校生の塾生さんには必ず中学教科書・重要単語を含む例文の暗唱を実施して貰っています。しっかりと実行すれば必ず英語力は身につきます。

「一円を笑うものは一円に泣く」と言いますが、英語学習では「A is B を笑うものはA is Bに泣く」どころか「英語に泣く」ことになると思います。こうした単純に見える文ほど丁寧に学んでいくことが大切なのです。学校の英語は役に立たない、などと批判する前に、自分の勉強について「質と量」を見つめ直すことが大切だと思います。「自分は学校の英語を批判できるほど英語をまじめに勉強したか?」ということです。こういう姿勢でいれば、焦って高い授業料を払って英会話学校に通ったり、楽して英語を身につけようと「聞き流し教材」などという無駄なモノにお金と時間を浪費せずに済みます。本気で英語を勉強するなら、まずは教科書の暗唱からスタートしてみてはいかがでしょうか?