ことのは塾のことのはブログ

ことばの専門塾を主宰する在野の言語学者が身近な言葉の不思議について徒然なるままに好き勝手語ります。

ことばの解釈は、受け取り手次第

前回、イチロー元選手の記者会見での言葉を取り上げました。その際、私は「新聞記事になる、ということは一種の伝言ゲームです。音声記録を全て文字に起こして記事にする場合は構いませんが、そうでない限り、どうしても自分の発した言葉に受け取り手である記者の『解釈』が入ります。」ということを述べました。今日は、「解釈(Construal)」をテーマに「言葉の怖さ」を伝えられたら、と思います。

 

 ちょっと古い記事を取り上げます。2012年のロンドンオリンピック女子サッカーに関する記事です。2012年7月28日にグループリーグでスウェーデンと対戦した日本は0-0の引き分けになりました。以下は翌日(2012年7月29日)の各スポーツ新聞の記事です(以下の引用記事内における澤穂希さんの表記は新聞掲載のままです)。

 

(1)       『スポーツニッポン』の記事

            それでも2試合を終えて1勝1分けは悪くない結果で「引き分けはノリさん(佐々木監督)の思惑通りじゃないですか」と前を向いた。

(2)       『サンケイスポーツ』の記事

            引き分けは結果的に『吉』との見方もある。「ノリさんの思惑通りいったんで、よかったんじゃないですか」とニヤリ笑ったのは沢だ。

(3)       『日刊スポーツ』の記事

            沢でさえも「ノリさんの思惑通りだったのでは」と、ドローに終わった試合を、皮肉を込めて振り返った。選手と監督との認識のズレは鮮明になった。

(4)       『スポーツ報知』の記事

            試合後、MF沢は「引き分けはノリさんの思惑通りじゃないですか。私には分からないんで」と皮肉たっぷりに話し、厳しい表情で去った。

 

読んでお分かりの通り、四紙とも引き分けという試合結果に対する澤穂希選手(当時)のコメントを取り上げています。ところが、興味深いことにその捉え方、つまり、「解釈」には違いが見られます。

 

まず、(1)のスポニチさん、(2)のサンスポさんは澤さんのコメントを好意的(ポジティブ)に捉えています。特にサンスポさんの方でそのことがより強く読み取れます。一方、(3)の日刊さん、(4)の報知さんの記事は論調がガラッと変わって悲観的といいますか、ネガティブな捉え方をしています。(3)では「皮肉を込めて」や「選手と監督との認識のズレ」という言葉から分かるように、あたかも試合の結果および佐々木監督の作戦指揮に対して澤さんが不満を述べているかのように書かれています。(4)における「皮肉たっぷりに」や「厳しい表情で」も同様ですね。ここからも分かるように、結局新聞というメディアを通して我々に伝わるのは試合結果に対する「澤選手自身の捉え方」ではなく、「このニュースを取材し、まとめた記者(或いはその所属する新聞社・編集者)の捉え方」であるということが分かります。では、なぜこのような「捉え方の違い」が生まれてしまうのでしょうか。

 

実はここには「期待値」が大きく関わっています。それぞれの記者・新聞社には取材対象に対する何らかの「期待」を持って接します。その「期待」に照らし合わせてコメントを解釈するのです。

 

分かり易い例で考えましょう。皆さんがお小遣いや賞与をいただいたときのことを思い出してみましょう。例えば、子供のころ親戚にお小遣いをもらったとします。金額は1,000円です。この状況を言語化する場合、次の3つの言い方が考えられます。

 

(5)       1,000円もらった。

(6)       1,000円もらった。

(7)       1,000円しかもらえなかった。

 

同じ状況を表しているはずなのに、随分印象が異なりますよね。(5)は最も無色透明な言い方です。事実をそのまま述べた形です。対して、(6)は「も」という表現から推察できるように、「こんな金額をもらえるとは思わなかった」という話者の「期待」が反映されています。その期待とは、「お小遣いがもらえるとは思っていなかった」、或いは、「お小遣いを期待していたが、その金額は1,000円未満だと思っていた」ということになりますね。いい意味で「期待外れ・予想外」だったわけです。逆に(7)は「しか」という表現から分かるように、悪い意味で「期待外れ・予想外」だったことを意味します。「もっともらえると思ったのに」ということですね。

 

このように、我々はいつも何かにまっさらな状態で接するわけではなく、背景知識や経験則から何らかの「期待」をもって対象に接します。これを先ほどの記事に当てはめて考えてみましょう。

 

まず、澤さんのコメントを好意的に報じている(1)のスポニチさん、(2)のサンスポさんは、引き分けという試合結果に対して少なくとも「期待外れ・予想外」という前提ではなかったのです。それに対し、一般的に読者・ファンは勝利を期待していただろうと考えるのが普通です。ですから、その結果を報じるにあたって、「勝利を望んでいたはずの一般読者をがっかりさせたくない」という思いが働きます(もちろん、これは善意ではなく、新聞の売り上げという観点でしょう)。そこで、「引き分けは悪くない結果」と報じる根拠として澤さんのコメントを解釈することになります。つまり、「引き分けだったけど、悪くない結果だ。だって澤さんも『監督の思惑通りだ』と言ってるのだから」という論理です。

 

それに対し、澤さんのコメントをネガティブに報じている(3)の日刊スポーツさん、(4)の報知さんは、引き分けという試合結果に対して「期待外れ・予想外」という前提なのでしょう。ですから、澤さんの「ノリさんの思惑通り」という言葉をそのまま受け入れるわけにはいかないのです。そのまま受け入れてしまうと、自分たちの前提である「期待外れ」という思いと一致しないからです。「引き分けが監督の思惑通りのはずがない。澤選手は皮肉を言っているんだ」という論理です。もっと言えば、「なでしこジャパンが引き分けなんておかしい。何かあるはずだ。きっと監督と選手の間で軋轢でも起こっているのではないか。なのに『思惑通り』はおかしい。そうか、皮肉だ。」という論理です。

 

2つの立場の、いずれの解釈も澤さんの言葉を「自分たちに都合の良いように解釈している」という点で共通していることがお分かりいただけると思います。ですから、どの紙面にも澤さん自身の本当の気持ちは反映されていないかもしれないのです。どうしてこうなるかと言いますと、新聞記者には「事実を伝える」という側面の他に「読者を惹きつける(=売れる)記事を書く」という側面があるからです。一般紙よりもスポーツ新聞には後者の側面が大きく反映されることがあります。つまり、極端な話、「事実をどう伝えれば面白い、売れる記事になるか」という記者、或いは編集者の主観が相当に入り込む形になるのです。つまりは「事実の加工」です。編集者の思惑次第でどうにでも加工されてしまうわけです。これが行き過ぎると「ねつ造」になるのは言うまでもありません。スポーツ選手や芸能人の言葉が時と場合によって様々な誤解を生むのはこういう理由です。

 

ですから、我々は一つのものごとを理解するのに一人の人や一つの媒体の目を通した情報に頼っていてはいけないのです。同じことを様々な角度で見ることが必要です。複眼的視点とでも言いましょうか。これが非常に大切になるわけです。では、最終的にどのような情報を選択すればいいのか、と申しますと、結局は「自分の目で耳で確認したこと」が最も信用できるということになります。自分の目や耳で確認できない情報については、最も自分に都合の良い情報を選んでしまうのが人間の性でもあるのです。そこを理解したうえで情報を取捨選択していくこと、判断をしていくことが大切なのではないかと思います。

 

これは自分が人に何かを伝える際にも当てはまります。自分の言葉も相手が自身の都合の良い解釈をするであろうこと、そしてその解釈はその相手が自分に対してどのような期待値を持っているかにより大きく変わりうること、このことを心得ておく必要があります。

 

こう考えると、何故イチローさんが慎重な言葉選びをするのかがよく分かります。世の政治家たちは弁士を名乗るくせに言葉の怖さを知らない、或いは舐めているから、不用意な発言で釈明に追われたり、最悪の場合辞任に追い込まれることになるのです。